文化――と言えばとても高尚なものに感じますが
それはまだ人が衣食住にも窮していた頃、
十分それ以上の余裕を持った人間が行っていたことだったからなのでしょう。
ほら、まわりをごらんなさい。
ケータイにカップラーメン100食以上のお金を掛けている人々がいて、
パチンコに家賃と同額、あるいはそれ以上に費やす人がいて。
もはや全ての文化というものは特別なものではなく
大衆的なポップカルチャーとしてしか存在しえないのです。
・・・
友人の日記に書かれていたことで最近自分も結構考えていたことなのだけどそれについて書いてみようかな。
友人の日記ってのはそれが主旨じゃなくて
「小説なんていつでも書ける」って女の子がいてムカついたって話なんだけど
それは確かに一言で言えば「だったら今書けよ」で終わる話でしかない。
ただ、その中「作文」は誰にでもかけるけど、「小説」は才能がなければ書けないって話があって
それはその通りなんだろうけどじゃあ作文と小説の違いって何だろう。
「誰でも一生に一冊、小説を書ける」ってその女の子が言ってたらしくて
友人は「それほど強烈で特別な体験を誰でも一生に一回はする」って意味だと否定してるけど
確かにそれは犬も歩けば棒に当たると大して変わらなくて
おい、棒になんか当たってねーよとかそんな表現の話でしかない。
ただ、体験だけで書かれた本、
才能が無いものが作文とするならば
その作文がそこそこ売れ読まれているのも事実だ。
ぱっと思い出しただけでも「生きながら火に焼かれて」とか
「あおぞら」(未読、なのに書いてすいません)とかある種のケータイ小説とか。
資本主義で使われているスケールでは
それらはそこそこ優れたものであるというのが一面の事実だろう。
最も、絵画にしたって故人の遺物と絵画商法でもよく売られているリトグラフの値段の差が
そのまま価格の差という事ではないのだろうけれど。
どうして、誰にでも書けるようなもの
(いや、まぁ少なくてもそう見えるということで)が売れているのだろう。
友人は編集者なので暇だったら
その目線から教えて貰おうと珍しく踏み逃げ(笑)しなかったところ
友人は小説とケータイ小説を例にして
ケータイ小説は進化した小説なのかもしれないということを言っていた。
実は自分に引っかかっていたのはその部分でケータイ小説だけに留まってないような気もして
色々考えてたんだけど
気付いてみればメウロコ…いや、
初めて死に気付いた子供みたいな気持ちになった。
疑問そのものが、すでに答えだった。
誰にでも書けるようなものだからこそ売れるのだ。
カルチャーがポップカルチャーに取って代わられたなんてのは
別にパクったつもりはないけどパクってしまっているくらいに言われている事でしょう。
最近インターネットの発達によって作り手と受け手の敷居が低くなったなんて事も言われているけど
なぜそんなことが容易に起こりえるのかがなかなか分からなかった。
でもそれは敷居なんて元々は無かったんだろう。
ただ、手段が存在していなかったのだ。
だから、容易に、速く、進んでいるように見える。
その中ではできるだけ平易な文章で分かりやすい内容の方が人気を得られるのだ、というのも納得できる。
才能という個人に強く根ざしたものは一文の人を引きつけることはできても全体には広がりにくいのだ。
絵画が写実ではないが為に本質的にテーマを内包しなければいけないのに対して
写真が必ずしもテーマを必要とするわけではないように。
誰にも書けるわけではない技術のある小説と
誰にでも書ける作文で
どちらが作品として優れているかは別の問題なのだ。
だから結局は…いつも書いている事なんだけど
これは文体が酷いけど内容は面白いとか
この表現はうまいのだろうけど鼻につくとか
この比喩の感性は自分の好みだとか
そういった自分の嗜好のの中で面白いと思うものを
優れているとするしかないのだろうか。
落合采配が名采配か愚作かそんなことは定義できることでもないでしょう。
所詮は衣食住からはみ出た趣味の問題でしかないんだ。
といつもならこれ以上踏み込むつもりもなかったんだけどね。
もうちょっとだけ言うと
相対的により多くの人間が面白いと思った作品こそが素晴らしいって事なんだろう。
なんか救い無い気もするんだけどね。
そもそも自慰か迎合かの差でしかないもん。
俺について来いでそれでも人気があるものもあれば
一生懸命媚びて人気取りをしてるものもある。
読者に向き合って作り上げられたものもあれば
独りよがりな文章で終始されたものもある。
そんな事はどうだっていいんだ。
泡はすぐに消えてしまうんだもの。
それでも……救われる気もするんだけどね。
それはまだ人が衣食住にも窮していた頃、
十分それ以上の余裕を持った人間が行っていたことだったからなのでしょう。
ほら、まわりをごらんなさい。
ケータイにカップラーメン100食以上のお金を掛けている人々がいて、
パチンコに家賃と同額、あるいはそれ以上に費やす人がいて。
もはや全ての文化というものは特別なものではなく
大衆的なポップカルチャーとしてしか存在しえないのです。
・・・
友人の日記に書かれていたことで最近自分も結構考えていたことなのだけどそれについて書いてみようかな。
友人の日記ってのはそれが主旨じゃなくて
「小説なんていつでも書ける」って女の子がいてムカついたって話なんだけど
それは確かに一言で言えば「だったら今書けよ」で終わる話でしかない。
ただ、その中「作文」は誰にでもかけるけど、「小説」は才能がなければ書けないって話があって
それはその通りなんだろうけどじゃあ作文と小説の違いって何だろう。
「誰でも一生に一冊、小説を書ける」ってその女の子が言ってたらしくて
友人は「それほど強烈で特別な体験を誰でも一生に一回はする」って意味だと否定してるけど
確かにそれは犬も歩けば棒に当たると大して変わらなくて
おい、棒になんか当たってねーよとかそんな表現の話でしかない。
ただ、体験だけで書かれた本、
才能が無いものが作文とするならば
その作文がそこそこ売れ読まれているのも事実だ。
ぱっと思い出しただけでも「生きながら火に焼かれて」とか
「あおぞら」(未読、なのに書いてすいません)とかある種のケータイ小説とか。
資本主義で使われているスケールでは
それらはそこそこ優れたものであるというのが一面の事実だろう。
最も、絵画にしたって故人の遺物と絵画商法でもよく売られているリトグラフの値段の差が
そのまま価格の差という事ではないのだろうけれど。
どうして、誰にでも書けるようなもの
(いや、まぁ少なくてもそう見えるということで)が売れているのだろう。
友人は編集者なので暇だったら
その目線から教えて貰おうと珍しく踏み逃げ(笑)しなかったところ
友人は小説とケータイ小説を例にして
ケータイ小説は進化した小説なのかもしれないということを言っていた。
実は自分に引っかかっていたのはその部分でケータイ小説だけに留まってないような気もして
色々考えてたんだけど
気付いてみればメウロコ…いや、
初めて死に気付いた子供みたいな気持ちになった。
疑問そのものが、すでに答えだった。
誰にでも書けるようなものだからこそ売れるのだ。
カルチャーがポップカルチャーに取って代わられたなんてのは
別にパクったつもりはないけどパクってしまっているくらいに言われている事でしょう。
最近インターネットの発達によって作り手と受け手の敷居が低くなったなんて事も言われているけど
なぜそんなことが容易に起こりえるのかがなかなか分からなかった。
でもそれは敷居なんて元々は無かったんだろう。
ただ、手段が存在していなかったのだ。
だから、容易に、速く、進んでいるように見える。
その中ではできるだけ平易な文章で分かりやすい内容の方が人気を得られるのだ、というのも納得できる。
才能という個人に強く根ざしたものは一文の人を引きつけることはできても全体には広がりにくいのだ。
絵画が写実ではないが為に本質的にテーマを内包しなければいけないのに対して
写真が必ずしもテーマを必要とするわけではないように。
誰にも書けるわけではない技術のある小説と
誰にでも書ける作文で
どちらが作品として優れているかは別の問題なのだ。
だから結局は…いつも書いている事なんだけど
これは文体が酷いけど内容は面白いとか
この表現はうまいのだろうけど鼻につくとか
この比喩の感性は自分の好みだとか
そういった自分の嗜好のの中で面白いと思うものを
優れているとするしかないのだろうか。
落合采配が名采配か愚作かそんなことは定義できることでもないでしょう。
所詮は衣食住からはみ出た趣味の問題でしかないんだ。
といつもならこれ以上踏み込むつもりもなかったんだけどね。
もうちょっとだけ言うと
相対的により多くの人間が面白いと思った作品こそが素晴らしいって事なんだろう。
なんか救い無い気もするんだけどね。
そもそも自慰か迎合かの差でしかないもん。
俺について来いでそれでも人気があるものもあれば
一生懸命媚びて人気取りをしてるものもある。
読者に向き合って作り上げられたものもあれば
独りよがりな文章で終始されたものもある。
そんな事はどうだっていいんだ。
泡はすぐに消えてしまうんだもの。
それでも……救われる気もするんだけどね。
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