召されました。

ウチは真言宗なワケですが
基本的には「真言」を唱える事によって
悟りを開くというか救いを求めるわけです。

真言というのはお経の別の呼び方なんですかね。
なむあみだぶつ とか
なんまんだぶ って有名ですがこれは他の宗派です。
他の宗派では真言と呼ぶのかどうかは分かりません。

ちなみに真言宗では
なむだいしへんじょうこんごう です。無駄に長いね。

これはいくつかある真言のうちの一つです。
不動明王や大日如来を表す(?)真言もあります。
タイトルになってます廻向は仏教用語ですが
この名前が着いた真言もあります。

宗教は基本的には規範性の規定にあるわけですが
唱えるだけでよいというのは簡単な反面規範性も薄いものですね。
これは神に対する仏の概念でしょうか。

学の無い農民でも容易に実行できるように
規範性も難易度も下げて受け入れやすくしたとも言えるでしょうが。

まったく意味のわからない言葉の羅列を唱える事に意味はあるんでしょうかね。
子供はてらいもなく「栗と栗鼠」という言葉を叫べるでしょうが同じ次元の話ですかね。

ただ、それを唱え続ける事によって内容を知ろうと思えるわけで
導入としては間違ってないのかもしれません。
そして意味を知ってなお唱え続ければ規範の自律にも繋がるでしょう。

内容は欲をすて堅実に生きろと言った感じでしょうか。
「諸行無常」についても触れられていました。
その言葉は仏教で一番有名だと思うのですが
これって平家物語に引用されているからでしょう。
(さらに言えばそして教科書に載っているから)

部分的な引用というものは得てして全体を伝えない物でありまして
「諸行無常」もどうせ死ぬのだからどうでもいいというわけではなくて
死ぬのだから欲を持たずに生きようというものみたいです。どうも。

親鸞の浄土真宗だと違うかも知れませんけどね。
仏教だからと言って一概に括るのは
カトリックとプロテスタントを一緒くたにするようなものですからね。
その意味で宗教についてきちんと学んだ訳でもない人間が
あれやこれやというのはおかしいのかもしれませんが。

まぁ、とりあえず自分の「諸行無常」感は間違っておりましたわ。

つーかね、やっぱ最後は理論とかどうでも良くて感情の問題なんだわ。

それを避けようとしてもどうしようもなくて。

ただただ、疲れた。ものすごい脱力感で。

精進落しの席でビールを片手に歓談している様子を見て
なんだかなと思ったけどそれでいいのかなとも思えるし。

結局やっぱり自分はどうしようもなくモトの諸行無常のままだな。

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