古来は神道で何か特別な能力を持った者として畏敬されていたそうです。
2006年3月25日 駄文健常者に障害者の気持ちは分からない。
なんて言うのは正しいかどうかは分からないけど、
実際の所普段そんな事は気にしないでいて
特に問題があるわけじゃないからそうなんだと思う。
でも障害者に障害者の気持ちが分かるかと言えば
そんな事も無くて
人口肛門を使ってる人が障害者用トイレから出たら車椅子の人に睨まれたり
内臓の病気で立つのが辛い人が優先席に座ってると
前のお年寄りに睨まれたりなんてあるらしい。
内部障害者は見た目ではわからないからね。
でも、睨むって事はもうそれ自体を当然の権利であるって認識してるって事だよね。
ちょっと前の東横インの違法改造だけど
横浜市長が「ああいうホテルは利用しないで」と呼びかけたのに対し
「市長の発言は余計なお世話。あのホテルはサービスも良く、綺麗で安い。
市長は泊まった事が無いんでしょう」って手紙が来たらしい。
実際あのホテルって話題の割に
条例にはかなり違反してるけど法律違反って少ないんだけどね。
(まぁ条例も法に含まれるんですが。これは定義なんで何でとか言えない)
ちなみに脱線だけど
憲法94条には「法律の範囲内で条例を制定できる」ってなってて
「法律の範囲内」ってのは
法律が規制せずに放置しろという趣旨だと思われる物については
条例を作るなって事で同じ規制事項でも目的が違えば問題無いし
目的が同じでも法律をナショナルミニマム(全国を通じて守るべき最低限度のもの)
として扱って規制数値を厳しくするのも問題ないんだよね。
(と最高裁が昭和50年に判決出してる)
実際の所ね、条例なんてそこに住んでる住民の総意がきちんと反映されてるかと言えばかなり怪しいとは思うんだけど。法律の方がまだましでしょ。
ついでに脱線しとくと、法律だって常に厳密に適用されてるわけじゃないんだよね。
例えば売春だって黙認されてますらね。
東横インが安く営業できたのは障害者向けの部屋を削った所による部分もある訳で
障害者向けのコストってのは結局健常者に跳ね返ってくるんだよね。
障害者が補助を受ける事が当然の権利であるとするならば
健常者は当然の事として障害者を助ける義務を負わなきゃいけない。
でもさ、そもそもその違いってなんだ?
生まれつき体が動かない人でも
峠を攻めて事故って半身不随になりましたなんて
自業自得な人も同じ障害者。
不妊だって障害と言える訳だけど
治療に何百万円掛かるわりに何もしてもらえないでしょ。
(最近じゃ少子化対策で補助が結構出るようになったが
まさに条例じゃないが目的が違うな)
頭の良さとか運動神経だって
最初っから劣ってる人もいるわけじゃん。
これだってある意味障害なのにね。
頭がキてるくらい悪ければキ印さんとして補助されるけど
そこまでいかない人とかなりいいとの差だって
例えば収入として比べて見ればものすごい額になるのに。
自分も目がすごい悪いんだけど
(だから障害者の気持ちだって分からんけど類推する事はできるよ)
もちろんコンタクトは自費だし
4月からはコンタクトの眼科の検診保険対象外になるんだよね。
今まで普通に3割で良かったのに全額だよ。
でもこんなん保障されるわけもない。
(まぁ日本って目の悪い人多数派だけど。なんか災害起きた時の為に手術するかなぁ。自分が死ぬのは構わんけど守れないってのは問題だよね)
よく障害者への補助の理由で
競争社会では努力しようとしてもできない人には補助するべきだなんて言われるけど
努力なんて結果が伴っての努力であってね。努力したって無理なもんは無理。
例えば自分がどんなに努力してたって目は良くならない。
(手術だって多少良くなるだけだね)
それに例えば足が動かなくて車椅子でも
頭が働くなら頭脳労働はできるわけだよね。
ホテルなんて嗜好性の極みだからそういう市場もあるわけで
努力して稼いで広いゆったりした高い部屋に行けばいいじゃん。
安さを売りにするホテルにまで対応を求めるなんて
レーシックに補助よこせっていうようなものだよね。
どこかしら人には劣った部分と優れた部分があるけど
劣っている部分を権利に変換できるってどうなんだろう。
実際のところ誰もが誰もを助けるほど余裕があるわけじゃないからね。
飢えて死にそうな時に誰かにパンをあげる事なんて
相手が誰でもできる事でもないし義務でもない。
基本的には足りていてさらに余っている人が
余分な分を分けてあげることもできるぞってだけなんだよね。
そして余分な物を持っている人間が助ける義務を負うかといえばそうでもなく
それを自分の楽しみの為に浪費したとしても肯定されている。
純粋にシステム的な話だけで言えば
余ってる人間が足りない人にあげるのが理に適っているんだけど。
どこまでが余っているかさえ嗜好性で基準されるからね。
それでも、全体の意思として補助をしましょうって事になれば
それはそれでいいんだろうけど。多数原理は大事だからね。
みんなから集めたお金をみんなの使いたいように使う。
みんなが決めた決まりを守らせる。
それは間違いでは無いでしょう。
(問題としては法律なんて本当にみんなの意思なのかって事だけど。
条例なんてもっと怪しいしね)
だから、それはナショナルミニマムに近い物であるべきなんだと思う。
というかそうならざるを得ないんだと思う。
個人個人で価値観は違うんだから。
それで、みんながみんな障害者が補助を受ける事が
当然の権利であるって思ってるのかな。
そしてどこに健常と障害のラインを引くのかな。
それは、たぶん権利ではないんだよね。
権利があるのだとしても、それはそこまでのものじゃない。
そこから上はあくまでも好意によるものなんだ。
例えば難病でどっかに手術に行く為にお金が必要ですなんてよくあるけど
あれは出したい人が出すからそこに問題は生まれにくいよね。
大昔には、シャム双生児がサーカス小屋で見世物として働いてたとか
障害者の芸人で彼は自分及び他の人の障害(生涯)を
自虐や他虐して笑いを取って
それで「こんな事は健常者では言えませんからね」なんて言ってたけど
(まぁ最近じゃ健常者のお笑いも自虐や他虐か)
それでいいんじゃないのかな?
例えば自分が目が悪いから補助してくださいって言っても
そんなん他にもいるし我慢しろみたいな
まるで限定効用理論的に問題は解決されるし、
本当に重い障害の人だったらそれなりに補助を受けるだろうし
軽い障害の人だってそこそこ補助を受けられるだろうしね。
好意を得ようとする行為なんて見苦しいって思うかもしれないけど
そう思う人は補助を受けないで自分で努力して稼ぐなりなんなりすればいいだけ。
権利だって言って主張するよりよっぽどマシだと思うんだけどどうだろ。
なんて言うのは正しいかどうかは分からないけど、
実際の所普段そんな事は気にしないでいて
特に問題があるわけじゃないからそうなんだと思う。
でも障害者に障害者の気持ちが分かるかと言えば
そんな事も無くて
人口肛門を使ってる人が障害者用トイレから出たら車椅子の人に睨まれたり
内臓の病気で立つのが辛い人が優先席に座ってると
前のお年寄りに睨まれたりなんてあるらしい。
内部障害者は見た目ではわからないからね。
でも、睨むって事はもうそれ自体を当然の権利であるって認識してるって事だよね。
ちょっと前の東横インの違法改造だけど
横浜市長が「ああいうホテルは利用しないで」と呼びかけたのに対し
「市長の発言は余計なお世話。あのホテルはサービスも良く、綺麗で安い。
市長は泊まった事が無いんでしょう」って手紙が来たらしい。
実際あのホテルって話題の割に
条例にはかなり違反してるけど法律違反って少ないんだけどね。
(まぁ条例も法に含まれるんですが。これは定義なんで何でとか言えない)
ちなみに脱線だけど
憲法94条には「法律の範囲内で条例を制定できる」ってなってて
「法律の範囲内」ってのは
法律が規制せずに放置しろという趣旨だと思われる物については
条例を作るなって事で同じ規制事項でも目的が違えば問題無いし
目的が同じでも法律をナショナルミニマム(全国を通じて守るべき最低限度のもの)
として扱って規制数値を厳しくするのも問題ないんだよね。
(と最高裁が昭和50年に判決出してる)
実際の所ね、条例なんてそこに住んでる住民の総意がきちんと反映されてるかと言えばかなり怪しいとは思うんだけど。法律の方がまだましでしょ。
ついでに脱線しとくと、法律だって常に厳密に適用されてるわけじゃないんだよね。
例えば売春だって黙認されてますらね。
東横インが安く営業できたのは障害者向けの部屋を削った所による部分もある訳で
障害者向けのコストってのは結局健常者に跳ね返ってくるんだよね。
障害者が補助を受ける事が当然の権利であるとするならば
健常者は当然の事として障害者を助ける義務を負わなきゃいけない。
でもさ、そもそもその違いってなんだ?
生まれつき体が動かない人でも
峠を攻めて事故って半身不随になりましたなんて
自業自得な人も同じ障害者。
不妊だって障害と言える訳だけど
治療に何百万円掛かるわりに何もしてもらえないでしょ。
(最近じゃ少子化対策で補助が結構出るようになったが
まさに条例じゃないが目的が違うな)
頭の良さとか運動神経だって
最初っから劣ってる人もいるわけじゃん。
これだってある意味障害なのにね。
頭がキてるくらい悪ければキ印さんとして補助されるけど
そこまでいかない人とかなりいいとの差だって
例えば収入として比べて見ればものすごい額になるのに。
自分も目がすごい悪いんだけど
(だから障害者の気持ちだって分からんけど類推する事はできるよ)
もちろんコンタクトは自費だし
4月からはコンタクトの眼科の検診保険対象外になるんだよね。
今まで普通に3割で良かったのに全額だよ。
でもこんなん保障されるわけもない。
(まぁ日本って目の悪い人多数派だけど。なんか災害起きた時の為に手術するかなぁ。自分が死ぬのは構わんけど守れないってのは問題だよね)
よく障害者への補助の理由で
競争社会では努力しようとしてもできない人には補助するべきだなんて言われるけど
努力なんて結果が伴っての努力であってね。努力したって無理なもんは無理。
例えば自分がどんなに努力してたって目は良くならない。
(手術だって多少良くなるだけだね)
それに例えば足が動かなくて車椅子でも
頭が働くなら頭脳労働はできるわけだよね。
ホテルなんて嗜好性の極みだからそういう市場もあるわけで
努力して稼いで広いゆったりした高い部屋に行けばいいじゃん。
安さを売りにするホテルにまで対応を求めるなんて
レーシックに補助よこせっていうようなものだよね。
どこかしら人には劣った部分と優れた部分があるけど
劣っている部分を権利に変換できるってどうなんだろう。
実際のところ誰もが誰もを助けるほど余裕があるわけじゃないからね。
飢えて死にそうな時に誰かにパンをあげる事なんて
相手が誰でもできる事でもないし義務でもない。
基本的には足りていてさらに余っている人が
余分な分を分けてあげることもできるぞってだけなんだよね。
そして余分な物を持っている人間が助ける義務を負うかといえばそうでもなく
それを自分の楽しみの為に浪費したとしても肯定されている。
純粋にシステム的な話だけで言えば
余ってる人間が足りない人にあげるのが理に適っているんだけど。
どこまでが余っているかさえ嗜好性で基準されるからね。
それでも、全体の意思として補助をしましょうって事になれば
それはそれでいいんだろうけど。多数原理は大事だからね。
みんなから集めたお金をみんなの使いたいように使う。
みんなが決めた決まりを守らせる。
それは間違いでは無いでしょう。
(問題としては法律なんて本当にみんなの意思なのかって事だけど。
条例なんてもっと怪しいしね)
だから、それはナショナルミニマムに近い物であるべきなんだと思う。
というかそうならざるを得ないんだと思う。
個人個人で価値観は違うんだから。
それで、みんながみんな障害者が補助を受ける事が
当然の権利であるって思ってるのかな。
そしてどこに健常と障害のラインを引くのかな。
それは、たぶん権利ではないんだよね。
権利があるのだとしても、それはそこまでのものじゃない。
そこから上はあくまでも好意によるものなんだ。
例えば難病でどっかに手術に行く為にお金が必要ですなんてよくあるけど
あれは出したい人が出すからそこに問題は生まれにくいよね。
大昔には、シャム双生児がサーカス小屋で見世物として働いてたとか
障害者の芸人で彼は自分及び他の人の障害(生涯)を
自虐や他虐して笑いを取って
それで「こんな事は健常者では言えませんからね」なんて言ってたけど
(まぁ最近じゃ健常者のお笑いも自虐や他虐か)
それでいいんじゃないのかな?
例えば自分が目が悪いから補助してくださいって言っても
そんなん他にもいるし我慢しろみたいな
まるで限定効用理論的に問題は解決されるし、
本当に重い障害の人だったらそれなりに補助を受けるだろうし
軽い障害の人だってそこそこ補助を受けられるだろうしね。
好意を得ようとする行為なんて見苦しいって思うかもしれないけど
そう思う人は補助を受けないで自分で努力して稼ぐなりなんなりすればいいだけ。
権利だって言って主張するよりよっぽどマシだと思うんだけどどうだろ。
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