なぜ人を殺してはいけないの?
2006年2月23日 駄文なんて質問は愚問だったり命題だったりして
いろんな人が自分の考えを述べてますね。
ちょっと検索してみるとずらずらと並んでます。
聖書っていうのは哲学的にはすぐれた作品だと思います。
その中で原罪に続く罪として出てくるのがカインですね。
さすがにその辺も抜けなくカバーしています。
まぁ…なんで許しちゃってるのか良く分からないんですが。
この質問は倫理・宗教・哲学だけにとどまらず
まともな文学でもラノベでもテーマに置かれる事があります。
誰しもが一度は考える事なんでしょうね。
自分が初めてそういう物を読んだのは『午後の曳航』でした。
まぁ…ちっともおもしろくなかったのですが。
殺人を特異なものとして書きすぎてるんでよね。
この辺聖書のあっさりとはまるで対照的です。
さて、質問を出したたからには答をあげないとなんですが。
良く言われるのは「自分が殺されたら嫌だから他人を殺さない」かな?
だとすれば自分が殺されてもいいなら人を殺してもいいのでしょうか?
いや、逆は真とは限らないとは分かってますけど。
答っていっても、ぶっちゃっけそんなもんは不定です。
黒板にチョークで点を書いて、これはナニ?と聞くと
チョークの点、てんとうむし、ほこり、蟻なんて
様々な答が返って来るそうです。それと同じような。
先ほど言った自分が殺されるのが嫌の他に、
殺すこと自体に嫌悪感を感じるとか、
法律で決まっている(罰せられるデメリットとの方が大きい)とか、
めんどい、とか。
めんどいって言うのは答になってないというなら、
殺す理由が無いからと置き換えますね。
道端の雑草をわざわざ抜く人なんていないでしょ?
都会じゃあまり雑草生えてないけど。
どちらかと言えば、趣味、嗜好性の問題ですね。
と言ったところで実は全て殺してはいけない理由ではなくて
殺さない理由でしかありません。
禁止するということは逆を返せばそれはできてしまうという事であって
本質的に行動そのものは許容されてしまうんです。
そして、この中で後ろ2つは結構危ういです。
罰せられず逃げられるのなら強盗殺人をする。
なにか理由が見つかれば殺す。
しかしながら理由があれば殺すっていうのは
実の所結構肯定されているのでしょう。
戦争は反対の人も多いでしょうけど、
それが自衛のための物なら? 正統防衛は?
そして自分が大切な人を殺された時
犯人を殺すというのは?
そんな人がいたら自分は止めません。
その復讐が終わっても何も変わらないのだとしても。
犯人が消える事によってその人にとっての世界は変わる。
生きる意義さえもその事に置き換わってしまう人もいる。
だから自爆テロとか仕方ない事だと思います。
まさに自分が殺されてもいいなら人を殺してもいいという理論。
あるいは信じきってしまった人達。
止める言葉なんてみつかりません。
その人はその為に生きてきたんだから。
ただ、それを止める事はできる。同じ手段で。
もう、どこにもいけない理由なんて無いですね。
それでも誰しもが殺人を犯すわけではありません。
別に答なんていらないんです。
さきほどのチョークの点の話ですが、
実は色々な答を返してくるのは子供達で
大人はほぼ例外無くチョークの点と答えるそうですよ。
…つまりは、そういうこと。
実は一番危ういのは子供達なんですよね。
何かしらの理由があるのならそれでいいのでしょう。
ただ、それを見つけるのには時間が掛かるわけで。
思い出してください。
なんも意味のないけれど
蟻や蝶や蛾や蝉やバッタやトカゲやカブトムシの命を
踏みにじった事ってありませんか?
それが猫になると精神病の一歩手前だなんて言われたりもしますね。
でも昔、毎晩毎晩毎晩ノラ猫が叫んで五月蝿くて
(初めは子供の泣き声かと思ってすごいびっくりした)
ぶっ殺してやろうとまでは思わなかったけど
保健所ちゃんと仕事しろよと思った事はあります。
子供の無邪気な好奇心は残酷なんですよ。
昆虫に向けられてた物が人に向いてもおかしくないですからね。
なんの意味も無く。
さて、その時になんて止めるべきでしょうか。
やっぱり、答なんて不定なんだけど…
答えを押しつけるのではなく話すことで
その子が自分で答えを見つける事には繋がる。
たぶん。でしかないけれどね。
いろんな人が自分の考えを述べてますね。
ちょっと検索してみるとずらずらと並んでます。
聖書っていうのは哲学的にはすぐれた作品だと思います。
その中で原罪に続く罪として出てくるのがカインですね。
さすがにその辺も抜けなくカバーしています。
まぁ…なんで許しちゃってるのか良く分からないんですが。
この質問は倫理・宗教・哲学だけにとどまらず
まともな文学でもラノベでもテーマに置かれる事があります。
誰しもが一度は考える事なんでしょうね。
自分が初めてそういう物を読んだのは『午後の曳航』でした。
まぁ…ちっともおもしろくなかったのですが。
殺人を特異なものとして書きすぎてるんでよね。
この辺聖書のあっさりとはまるで対照的です。
さて、質問を出したたからには答をあげないとなんですが。
良く言われるのは「自分が殺されたら嫌だから他人を殺さない」かな?
だとすれば自分が殺されてもいいなら人を殺してもいいのでしょうか?
いや、逆は真とは限らないとは分かってますけど。
答っていっても、ぶっちゃっけそんなもんは不定です。
黒板にチョークで点を書いて、これはナニ?と聞くと
チョークの点、てんとうむし、ほこり、蟻なんて
様々な答が返って来るそうです。それと同じような。
先ほど言った自分が殺されるのが嫌の他に、
殺すこと自体に嫌悪感を感じるとか、
法律で決まっている(罰せられるデメリットとの方が大きい)とか、
めんどい、とか。
めんどいって言うのは答になってないというなら、
殺す理由が無いからと置き換えますね。
道端の雑草をわざわざ抜く人なんていないでしょ?
都会じゃあまり雑草生えてないけど。
どちらかと言えば、趣味、嗜好性の問題ですね。
と言ったところで実は全て殺してはいけない理由ではなくて
殺さない理由でしかありません。
禁止するということは逆を返せばそれはできてしまうという事であって
本質的に行動そのものは許容されてしまうんです。
そして、この中で後ろ2つは結構危ういです。
罰せられず逃げられるのなら強盗殺人をする。
なにか理由が見つかれば殺す。
しかしながら理由があれば殺すっていうのは
実の所結構肯定されているのでしょう。
戦争は反対の人も多いでしょうけど、
それが自衛のための物なら? 正統防衛は?
そして自分が大切な人を殺された時
犯人を殺すというのは?
そんな人がいたら自分は止めません。
その復讐が終わっても何も変わらないのだとしても。
犯人が消える事によってその人にとっての世界は変わる。
生きる意義さえもその事に置き換わってしまう人もいる。
だから自爆テロとか仕方ない事だと思います。
まさに自分が殺されてもいいなら人を殺してもいいという理論。
あるいは信じきってしまった人達。
止める言葉なんてみつかりません。
その人はその為に生きてきたんだから。
ただ、それを止める事はできる。同じ手段で。
もう、どこにもいけない理由なんて無いですね。
それでも誰しもが殺人を犯すわけではありません。
別に答なんていらないんです。
さきほどのチョークの点の話ですが、
実は色々な答を返してくるのは子供達で
大人はほぼ例外無くチョークの点と答えるそうですよ。
…つまりは、そういうこと。
実は一番危ういのは子供達なんですよね。
何かしらの理由があるのならそれでいいのでしょう。
ただ、それを見つけるのには時間が掛かるわけで。
思い出してください。
なんも意味のないけれど
蟻や蝶や蛾や蝉やバッタやトカゲやカブトムシの命を
踏みにじった事ってありませんか?
それが猫になると精神病の一歩手前だなんて言われたりもしますね。
でも昔、毎晩毎晩毎晩ノラ猫が叫んで五月蝿くて
(初めは子供の泣き声かと思ってすごいびっくりした)
ぶっ殺してやろうとまでは思わなかったけど
保健所ちゃんと仕事しろよと思った事はあります。
子供の無邪気な好奇心は残酷なんですよ。
昆虫に向けられてた物が人に向いてもおかしくないですからね。
なんの意味も無く。
さて、その時になんて止めるべきでしょうか。
やっぱり、答なんて不定なんだけど…
答えを押しつけるのではなく話すことで
その子が自分で答えを見つける事には繋がる。
たぶん。でしかないけれどね。
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