「兎の話、知ってますか?」
彼女は剥ぎ取られた洋服を手繰り寄せながら言った。すらっとした上半身が鏡に映る。光量の落ちた部屋の中でしなやかな体が白く浮き立って見えた。鏡の中の彼女と現実の彼女の調和が幻想的だ。
「寂しいと死ぬって?」
それはデマだ。大体そんなちょっと調べれば分かるような事がなんで広まっているのだろう。冷たい炎なんて実際はありえないものまで表現しようとするどこぞの詩人の功績だろうか。
「それじゃなくて、御伽噺の…」
「時計を持った奴が電波の国にご案内ってやつか?それとも亀に負ける怠け者は駄目ってやつか?」
彼女の消え入りそうな声を遮る。彼女はいつもゆっくりと話す。俺はそれがもどかしくて、どこか世間知らずなまるで隔絶された塔の中で育てられたんじゃないかなんて思える彼女を時折殴りたいなんて衝動に駈られるが、女に手を挙げる事は数少ない俺の美意識に反したし殴れられた彼女が俺を見つめるときの瞳に嫌悪が無くても激しく自己嫌悪に陥るだろうかうからそんな行動は取らない。代わりに言葉が乱雑になるし抱くときには荒々しく残酷な欲望を満たすのだがそれは直す必要も無いと思うし彼女はそのことについてはなにも言わない。
「自分を焼いて捧げた、兎の話です」
首を横に振る動作も緩慢だった。そのあと続く言葉も遅い。またいらつきが鎌首をもたげそうになるが押さえた。それよりもどうして急にこんな事をいいだしたんだろうと訝しむ。彼女はまるで砂漠の中でやっとみつけたオアシスを見るように、あるいは、ウェイトレスが持ってくる大好きなケーキを見るような表情を俺に向ける。彼女は可愛い。マスカラを付けなくてもいいほど長い睫毛が物憂げで、さらさらとした細い髪の毛は光を浴びると金色に光る。しかしその可愛さを自覚できない所が彼女を不幸にしている。俺は何も言わず黙って彼女に話の続きを促す。
「兎が、どうして自分の身を捧げたか、その理由がやっと分かりました。昔、この話を聞いたとき兎がどうしてそんな事をしたのか分かりませんでした。可愛そうで、泣いてしまいました。でも、違うんです。兎は始めから、食べられるために生まれてきたんです。他の道があったわけではないんです。ただ、食べられるためだけに」
彼女の口調はいつもより少し早かった。いつもよりしっかりしていた。にも関わらず焦燥感が沸き上がる。話の意図が掴めないからだ。表情からそれを読み取ろうとしても彼女の表情は穏やかであった。アルカイック・スマイルを浮かべている様にも見える。おかしい。おかしいのだが彼女の態度を見るとそんな事を感じるのは自分だけというような錯覚に陥る。みんなが赤信号でも渡るなら赤信号を守る奴はおかしい。まるでみんなが行ってしまった後に赤信号が変わるのをぽつんと待っているようような感覚に似ている。俺は何かを言おうとして結局何を言えばいいかわからずに口を閉ざすと彼女は手にしていた洋服を身に着ける。生温いような沈黙が部屋に満ちる。彼女は着替えを終えた。白のタートルと黒いミニスカート。すらっとした肢は隠されずにそのまま露出している。
「私は兎なんです。だから、全てを捧げたいんです」
か細い声。いつもの彼女だ。
彼女と出会ったのはケイタイの出会いサイトだった。「家出しました。どなたか泊めてください」という書き込みに「来れば?」と一言だけ書いて送ったら返事が来た。俺は進学の為に一人暮らしをしていた。泊める代わりに抱いてもいいという解釈だったからその日のうちに彼女を抱いた。彼女はどこかぎこちなかった。でもまさかそんな事はないだろうと思っていたのに初めてだった。彼女は初めてという事について何も言わなかった。俺は初めてって気付いたときに止めようとしたけど欲望に負けた。その日から1週間程彼女はいたがおれはその日以外彼女を抱かなかった。彼女は俺が大学に行ってる間にご飯を作ってくれたし、休みの日は二人で街をぶらぶら歩いたりカラオケをしたりボーリングをした。奪った行為は俺にとって刺だったけど彼女と過ごした時間は穏やかに過ぎた。もし見合い結婚したとすればこんな感じなのかもしれない。たまに彼女がみせる戸惑いが行為によるものなのか打ち解けてないのか家を出た事に関するのかは分からなかったけれど。この時間はいつまで続くのだろうなんて考え始めた時、「ありがとうございました。そろそろ帰ります」と彼女は言った。俺は「そう、がんばんな」と送り出した。そうだ、こんな時間がいつまでも続くわけではないのだ。引き留める事はできなかった。引き留めてどうなる?
しばらくして、彼女から連絡があった。一緒に食事をして、体を重ねた。しだいにどちらともなく連絡をして会う事が増えた。こんな関係が付き合ってる事になるのかどうかは俺は深く考えた事はない。彼女がなんで俺に連絡をしてくるのかも分からないのに。
彼女は俺の言葉を待っていた。しかしなんと言えばいいのか分からない。また沈黙が訪れるがさっきの沈黙より肌寒い気がする。俺は彼女の言葉を言葉としては理解しているのだがそれは「あいうえお」や「ABC」のように直接意味を表現しているように感じられなかった。全てを、さ、さ、げ、る?俺に?この俺に?いや、捧げるって何を?丸焼きにして食べてくださいと言っても俺にはカニバリズムの趣味は無い。彼女は確かに食べちゃいたいほどの容姿を持っているのは間違い無いのだがその頬に、胸に、太股にナイフを入れる場面を想像すると吐き気がした。当たり前だが捧げるっていうのは精神的な物だろう。具体的にどうするんだ?と口を開こうとして思いとどまる。そんな言葉を吐くべきじゃない。彼女が何か言いかけた俺を見つめている。
彼女は俺の庇護性を刺激する。その仕草、表情、言葉のすべてがどうしようも無く守ってあげたくなるのだ。ただその一方で俺はそんな彼女を壊してしまいたくなる。壊してどうなるのかわからない。ただ、壊す、綺麗な物だから、壊す。2つの感情は相反するもので両立することはできない。…でも、それは根本的な所で繋がっている。…好きだから。好きだから、守りたくなる。好きだから、壊したくなる。そう、俺は彼女の事が好きだった。
「俺は兎なんかより…お前が、好きだけどな」
話の脈絡としては十分おかしい事を承知の上でそれだけを言った。言ってしまった。好きなんて事は口にすれば気恥ずかしいだけでしかないのだけど俺は他に言うべき言葉を見つけられなかった。彼女は否定形で始まる俺の言葉に少し表情を翳らせたが続く言葉にえっと戸惑いをみせてそれから微笑んでさらに涙を流した。そんな彼女を見てやっぱり俺は守りたくなって、壊したくなってしまったけどそれはどちらか一方に振れなくてもいいのだろう。彼女は不器用だ。自分の可愛さに気付く事もなく、その女の子そのものの態度が男にどんな印象を与えるかも分かってない。そしてそれしか方法を知らない。俺も人の気持ち、自分の気持ちすらよく分からないくらい不器用だから、ただ二人の距離を縮める為だけの事ですらこんなにも時間がかかってしまった。
「…んっ」
俺は彼女に近づくとゆっくりと口付けをした。思えば抱く前以外に恋愛表現としてキスをしたのは今が初めてだった。だから、このキスは特別な意味を持っていて、彼女はそれに気付いたみたいで終ってから俺の胸に額を押し付けてもたれかかってきた。俺は黙って彼女に腕を回した。
「やっぱり、私は兎です。寂しいと死んじゃうんです。だから、出来るだけ側にいてください」
バッグの中から取り出したハンカチで涙を拭って彼女は言った。
俺は、それデマなんだぞ、なんて事は言わずにただ言う。「そうだな」
彼女は剥ぎ取られた洋服を手繰り寄せながら言った。すらっとした上半身が鏡に映る。光量の落ちた部屋の中でしなやかな体が白く浮き立って見えた。鏡の中の彼女と現実の彼女の調和が幻想的だ。
「寂しいと死ぬって?」
それはデマだ。大体そんなちょっと調べれば分かるような事がなんで広まっているのだろう。冷たい炎なんて実際はありえないものまで表現しようとするどこぞの詩人の功績だろうか。
「それじゃなくて、御伽噺の…」
「時計を持った奴が電波の国にご案内ってやつか?それとも亀に負ける怠け者は駄目ってやつか?」
彼女の消え入りそうな声を遮る。彼女はいつもゆっくりと話す。俺はそれがもどかしくて、どこか世間知らずなまるで隔絶された塔の中で育てられたんじゃないかなんて思える彼女を時折殴りたいなんて衝動に駈られるが、女に手を挙げる事は数少ない俺の美意識に反したし殴れられた彼女が俺を見つめるときの瞳に嫌悪が無くても激しく自己嫌悪に陥るだろうかうからそんな行動は取らない。代わりに言葉が乱雑になるし抱くときには荒々しく残酷な欲望を満たすのだがそれは直す必要も無いと思うし彼女はそのことについてはなにも言わない。
「自分を焼いて捧げた、兎の話です」
首を横に振る動作も緩慢だった。そのあと続く言葉も遅い。またいらつきが鎌首をもたげそうになるが押さえた。それよりもどうして急にこんな事をいいだしたんだろうと訝しむ。彼女はまるで砂漠の中でやっとみつけたオアシスを見るように、あるいは、ウェイトレスが持ってくる大好きなケーキを見るような表情を俺に向ける。彼女は可愛い。マスカラを付けなくてもいいほど長い睫毛が物憂げで、さらさらとした細い髪の毛は光を浴びると金色に光る。しかしその可愛さを自覚できない所が彼女を不幸にしている。俺は何も言わず黙って彼女に話の続きを促す。
「兎が、どうして自分の身を捧げたか、その理由がやっと分かりました。昔、この話を聞いたとき兎がどうしてそんな事をしたのか分かりませんでした。可愛そうで、泣いてしまいました。でも、違うんです。兎は始めから、食べられるために生まれてきたんです。他の道があったわけではないんです。ただ、食べられるためだけに」
彼女の口調はいつもより少し早かった。いつもよりしっかりしていた。にも関わらず焦燥感が沸き上がる。話の意図が掴めないからだ。表情からそれを読み取ろうとしても彼女の表情は穏やかであった。アルカイック・スマイルを浮かべている様にも見える。おかしい。おかしいのだが彼女の態度を見るとそんな事を感じるのは自分だけというような錯覚に陥る。みんなが赤信号でも渡るなら赤信号を守る奴はおかしい。まるでみんなが行ってしまった後に赤信号が変わるのをぽつんと待っているようような感覚に似ている。俺は何かを言おうとして結局何を言えばいいかわからずに口を閉ざすと彼女は手にしていた洋服を身に着ける。生温いような沈黙が部屋に満ちる。彼女は着替えを終えた。白のタートルと黒いミニスカート。すらっとした肢は隠されずにそのまま露出している。
「私は兎なんです。だから、全てを捧げたいんです」
か細い声。いつもの彼女だ。
彼女と出会ったのはケイタイの出会いサイトだった。「家出しました。どなたか泊めてください」という書き込みに「来れば?」と一言だけ書いて送ったら返事が来た。俺は進学の為に一人暮らしをしていた。泊める代わりに抱いてもいいという解釈だったからその日のうちに彼女を抱いた。彼女はどこかぎこちなかった。でもまさかそんな事はないだろうと思っていたのに初めてだった。彼女は初めてという事について何も言わなかった。俺は初めてって気付いたときに止めようとしたけど欲望に負けた。その日から1週間程彼女はいたがおれはその日以外彼女を抱かなかった。彼女は俺が大学に行ってる間にご飯を作ってくれたし、休みの日は二人で街をぶらぶら歩いたりカラオケをしたりボーリングをした。奪った行為は俺にとって刺だったけど彼女と過ごした時間は穏やかに過ぎた。もし見合い結婚したとすればこんな感じなのかもしれない。たまに彼女がみせる戸惑いが行為によるものなのか打ち解けてないのか家を出た事に関するのかは分からなかったけれど。この時間はいつまで続くのだろうなんて考え始めた時、「ありがとうございました。そろそろ帰ります」と彼女は言った。俺は「そう、がんばんな」と送り出した。そうだ、こんな時間がいつまでも続くわけではないのだ。引き留める事はできなかった。引き留めてどうなる?
しばらくして、彼女から連絡があった。一緒に食事をして、体を重ねた。しだいにどちらともなく連絡をして会う事が増えた。こんな関係が付き合ってる事になるのかどうかは俺は深く考えた事はない。彼女がなんで俺に連絡をしてくるのかも分からないのに。
彼女は俺の言葉を待っていた。しかしなんと言えばいいのか分からない。また沈黙が訪れるがさっきの沈黙より肌寒い気がする。俺は彼女の言葉を言葉としては理解しているのだがそれは「あいうえお」や「ABC」のように直接意味を表現しているように感じられなかった。全てを、さ、さ、げ、る?俺に?この俺に?いや、捧げるって何を?丸焼きにして食べてくださいと言っても俺にはカニバリズムの趣味は無い。彼女は確かに食べちゃいたいほどの容姿を持っているのは間違い無いのだがその頬に、胸に、太股にナイフを入れる場面を想像すると吐き気がした。当たり前だが捧げるっていうのは精神的な物だろう。具体的にどうするんだ?と口を開こうとして思いとどまる。そんな言葉を吐くべきじゃない。彼女が何か言いかけた俺を見つめている。
彼女は俺の庇護性を刺激する。その仕草、表情、言葉のすべてがどうしようも無く守ってあげたくなるのだ。ただその一方で俺はそんな彼女を壊してしまいたくなる。壊してどうなるのかわからない。ただ、壊す、綺麗な物だから、壊す。2つの感情は相反するもので両立することはできない。…でも、それは根本的な所で繋がっている。…好きだから。好きだから、守りたくなる。好きだから、壊したくなる。そう、俺は彼女の事が好きだった。
「俺は兎なんかより…お前が、好きだけどな」
話の脈絡としては十分おかしい事を承知の上でそれだけを言った。言ってしまった。好きなんて事は口にすれば気恥ずかしいだけでしかないのだけど俺は他に言うべき言葉を見つけられなかった。彼女は否定形で始まる俺の言葉に少し表情を翳らせたが続く言葉にえっと戸惑いをみせてそれから微笑んでさらに涙を流した。そんな彼女を見てやっぱり俺は守りたくなって、壊したくなってしまったけどそれはどちらか一方に振れなくてもいいのだろう。彼女は不器用だ。自分の可愛さに気付く事もなく、その女の子そのものの態度が男にどんな印象を与えるかも分かってない。そしてそれしか方法を知らない。俺も人の気持ち、自分の気持ちすらよく分からないくらい不器用だから、ただ二人の距離を縮める為だけの事ですらこんなにも時間がかかってしまった。
「…んっ」
俺は彼女に近づくとゆっくりと口付けをした。思えば抱く前以外に恋愛表現としてキスをしたのは今が初めてだった。だから、このキスは特別な意味を持っていて、彼女はそれに気付いたみたいで終ってから俺の胸に額を押し付けてもたれかかってきた。俺は黙って彼女に腕を回した。
「やっぱり、私は兎です。寂しいと死んじゃうんです。だから、出来るだけ側にいてください」
バッグの中から取り出したハンカチで涙を拭って彼女は言った。
俺は、それデマなんだぞ、なんて事は言わずにただ言う。「そうだな」
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