向日葵と少女

2006年11月9日 ゲーム
(車輪の国、向日葵の少女の真面目レビュー、ネタバレ込み)

1.向日葵

 まず、この物語のテーマにあげられるのは正義とは何か、という点があると思われる。タイトルにも使われ、作中に幾度も出てくる向日葵は正義の象徴でもある。正義はよく知られる概念であるが、信念であり、各個人や社会によってその正義は異なる。あの自由と正義を標榜する国が押し付けた正義が何を齎したか。現状を鑑みればそれはただの混乱でしかるまい。
 正義と法というのは密接な関係にあるが、端的に言えば、もっともある社会で支持されている、もしくは最大公約数的な正義が法というルールになっていると言えるであろう。『正義論』を著したロールズの言葉によれば、市民の間には、暗黙のうちに社会についての一つの基本の観念が共有されている、ということである。
 この物語の舞台は、罪人にたいする処罰を各種様々な義務で対応するという日本、あるいはおおよその世界の国々とは違う仮想世界である。死刑制度が打ち首の時代に退化するという記述がある点からしてもこの世界での正義、法の趣旨は我々が住む世界とは異なるものであるといえよう。教育としての刑罰が主眼に置かれており、その中での義務や高等管理人という設定はあるが、それは現実から乖離したものではなく、物語上の手段として使われているにすぎない。なぜなら、その中での正義に対する問いかけは、そのまま現実の我々の世界に対するテーゼとしても通用するものだからである。
 さて、作中ではまさに正義の代言者として書かれている法月であるが、彼の考え方は功利主義に基づいていると言える。全体の為には少数の犠牲は必然であるという、所謂最大多数の最大幸福の考え方である。正義について各人が考える時、他に取りえる方法論はマキシミンルールによるもの、直観主義、利己主義などがある。正義という概念の特質上、一概にこれが正解という考え方は存在しないであろう。それでもなぜ、私はこの物語を読む上で、彼の考え方に疑問を抱いてしまうのであろうか。それは、この物語が犠牲にされる側の立場を書いているからである。「あなたはもう少し、車輪の下にいる人間について考えるべきでしょう」とは賢一の言葉であるが、それに尽きる。いわば直感主義とも言えるその言葉だが、それは功利主義以上に伝わりにくいものであろうとも、物語として語られるときに、それは大きな意義を持つのである。「人の命が地球より重い」というのはよく知られた言葉であるが、それが事実正しいものであるかは疑問が残る。しかし、それを物語として創作するならばそこに意義は生ずる。それを全体を通して投げかけているのがこの物語なのである。
 この物語のもう1つのテーマとして愛があると思われるが、愛というのは正義以上に各個人による判断基準が定まるていないものであろう。その中で、正義と愛を対立させるように物語として組み上げている所にこの物語の素晴らしさがある。それについては次に述べる。

2.少女

 正義の象徴が向日葵であるとするならば、同様にタイトルになっている少女は愛を体言していると言える。作中では、さち、灯花、夏咲の順に正義、慈悲、愛の心に対応しているという表現があるが、私が受けた印象では、友愛、親子愛、恋愛に相当するのだろうと感じた。
 まず、さち編で示される友愛についてだが、賢一が安易にさちを助けないという点がある。それは友情としてもっともなストーリーであろう。さらに、メインはこちらなのだが、まなの行動である。まなは自分の身を犠牲にすることでさちに立派な画家へなって貰おうとしたのだ。トラウマが人を成長させるという言葉は誰のものだったか。法月さえもが言うように、姉の将来を憂い、自ら犠牲になった点は美しい。それが組み上げられたシナリオだたっとしても、その美しさは翳ることがないものである。
 次に、灯花編である。作中、灯花は言葉を選ばずに言えば無知な女の子として書かれている。「自分で考えない人間は、考える人間に利用されて生きるだけだってこと。利用されている人間は気づかないだけ」と賢一に指摘される程である。しかしその中でも、訪れる選択に対し、全部上手くいく方法を考えようとする。彼女に取って正義は全部がうまくいって、みんなが幸せになることに他ならないのである。
「世の中が、いつもそうやって理不尽な選択を迫ってくるというのなら……仕方がないことだって、知ったふうに大人面するような社会なら……」
「私は一生子供でいい!」
そのような強さに、私は無知の知という言葉を思い出さずにはいられなかった。そこに信念がある以上、押し付けられる正義は彼女が持つ正義の前に霞んでいくのである。
 さて、夏咲編について述べる前に、この物語のメインヒロインは誰かという事について考えてみたいと思う。私は、やはり、さちや灯花のファンの人に取っては悪いのだが、夏咲か璃々子であると思う。それは、最初の出会いに置いて登場するのがこの2人であり、三郎の残したメモリの中で触れられるのがこの2人であり、また正義との関連で愛を考えた場合、愛は恋愛を指すのであるという私の感性であり、また正義との関わりの中で語られるのが主にこの2人であるからである。
冤罪によって心が壊された夏咲は日々を抜け殻のように過ごしている。
「夏が来て、風が吹いて、暑くなって、毎日学園に通って…………なにか面白いことがありますか?」
「わたしがいなくなったって、日常は変わりません。誰もわたしをを必要としていませんから」
そんな彼女には昔の面影は無く、痛々しいさを感じずには得ない。
しかし、昔の、または取り戻した彼女が口にする言葉を考える。
「夏が来て、暑くなって、少しだけ雨が降って、田んぼは青々しくて、風が吹くと緑のにおいがして、ケンちゃんみたいな友達がいて……なんにも変わらないけれど、それだけでもいいんだよ」
というものであるが、その両方には共通する姿勢があるのである。
なんにも変わらないまま、日々を生きる。それは正義がどのような形であっても変わることもない。にも関わらず、どうしてその2つの間には表と裏以上の差異が存在してしまうのか。それは、愛しい人の存在があるかないか、それだけである。安易な恋愛至上主義とも言えるだろう。しかし、それは正義という答えのない問いかけのような理念に、別方向から解答を導いているのである。それは普遍の真理とも言えるであろう。
しかし、それは解答の1つでしかないということををきちんと書いているのがこの物語が恋愛一辺倒だけで終わらせていないところでもある。
 この物語はほぼ1本道で小説という形式を取ったとしてもでもほぼ問題は無いとは思うが、もしそうならば、エンディングは第5章のテロップが流れる所で終わっているだろう。小説は多層的に物語を伝えるのには向かない。夏咲と璃々子の選択は読者の想像に委ねられる事となっただろう。
そこをきちんと示しているのがこの形態にあった作りであると思う。ややもすると蛇足に過ぎないのかもしれないが、さちENDも含め、作り手の意思を示したことには意義がある。
夏咲ENDで示される
「でもケンちゃん、これでよかったの?」
「ケンちゃんはこの国を救うようなことができたかもしれないんだよ?」
そして璃々子ENDでの大統領立候補。
2つは逆のベクトルではあるが、その世界で生きていくうえでの姿勢を示した点で同一であり、物語の終わりに相応しいと言える。
 正義の象徴は向日葵であるが、向日葵そのものがもつ美しさは正義と無関係に輝く。日向 夏咲(ひなた なつみ)というまるで向日葵そのままの名前のような少女も正義とは無関係に輝いているのである。

3.法月(そう、付記)

 この物語ではまさに法の権化として書かれている法月であるが、必ずしもそうで無いことが最後には示される。いわば最後までの法月の行動はゲーム、あるいは「試験」であった。これは何を示しているのだろうか。それは、法月の中に迷いがあったこと他ならない。その迷いについて、作中でも多少は触れられていて想像する事もできるのだが、それは新たに発売されるファンディスクで語られるそうなのでそれを待つべきであろう。いやはや、なかなかいい商売である。
 
 

P.S. 最近日記の更新無かったのはこれシコシコ書いてたからです。まともに書くとチョー時間かかるね。なんで改めて書いたかっつーと、このゲーム久々に人に勧めてもいいレベルのゲームだと思ったからさ。あとは俺の中じゃ君のぞとマブラヴセットしか無いから。やってないゲームもいっぱいありますけどね。最初からまともに書けよってツッコミはやめてね。あまりのだるさにほんと途中で止めたかったしw

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